JK 昭和五十四年七月二十八日 朝の御理解。 御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか 牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が 見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうの であるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せ よ。」
人の難儀が助けられるという事。こんなに有り難いという事はないし、又神様もこれを喜んで下さるとこう思う。
問題は、本当に人が助かるという事を、有り難いと分からせてもらわなければならん。人間は、人を助ける事ができるのは有り難い事ではないか、牛やら馬ではできません。人間は、それを助ける事が出来るという事が有り難い。
けれども、それこそ沢山の人間が居りますけれども、人が助かるという事を本当に有り難いと分かっておる人間がどの位あるでしょうか。信心さして頂いて、先ず身内の者が助かる。先ず隣の人が助かる。又その隣の人が助かってゆくというように、身近かな所から助かってもらい、助かってもらいたいという願い。
そしてそれを神様が聞いて下さる程しの願い。そしてその願いが、又人へ伝わって行く程しの願い。そういう願いとはどういう事だろう。
私共の心の中には、妙な心があります。本当に隣の人が助かると、という事を願うとか、思うという人が少ないです。ね、隣の人が都合よくいくと、腹が立つようなね隣に蔵が建つと隣の人は腹を立てるというようなものが人間の心の中にはあるんです 妙なもんですね。隣がどんどん繁昌すると腹が立つ。だから先ずは、私共のそういう心から、先ずは改めていかねばいけないと思うですね。先ず隣を願え。先ず隣の幸を願え。勿論、自分が助かり、自分が幸になってゆくと、信心によってこんな心の状態でおれれるという事が有り難い。
その自分の助かりを隣に広げていこうと。所が遠い人の事は祈っても隣の人は祈ろうごつないという心ではいけない。本当に隣の人が助かられる。ね、そしてね、隣の人が助かられる、隣の人は又次の隣の人が助かられる。ここのにきにいよいよ人間がね、人間改造というような事がいわれますけれども、根本的に私共が改心に改心を重ねていかねばならない根本があるように思います。
それが、そうかというと、まあ、何と申しますかね、そこに難儀なあわれな人がありますと、はあ気の毒だなあと、どうかしてやりたいような助けてやりたいような心が有るのはあるんですよね。人間の心には。
だから人間の心の中には、そういう神様のような心と、まあいうならば鬼のような心とが同居しておるというような事が思われます。
そこで今日の御理解を頂きますと、人の難儀を助けられるという事を、有り難いと心得てとこうおっしゃっておられます。何軒先の人は助かってもらいたい、隣の人は助からんでも、むしろ助かってもらいたくないというような、厳密にいうとそういうものがお互いの心の中に有るのですから、そういう心を改めて、そこに信心の修行というか、昨日の御理解を頂きますと元日の心とかね、大晦日の心で暮らすといったような心の状態を願い求めての信心。
それには自分自身の心の中を、改める事が第一という事になります。心の中を改める。自分の心が清まってゆくに従って、私は、人の難儀が本当に、それこそ人が助かる事さえ出来ればと、本当にそういう心の状態が起こってくる。
そういう心の状態で人に伝えてゆく。いうならば、真で成就せん事はないとおっしゃるからその真を使えれる信心。そういう時に、始めて人が助けられる事が有り難いと心得られる事ではなかろうかと思います。
人の難儀を助ける事が出来る。ね、私共はその気になれば出来るその心を頂いていく心が、本当の信心心という事ではないでしょうか。だんだん力を受けてまいりますと本当に一言で人が助かるようになって来る。
先日も佐多先生の叔父さんになられるという神戸でしたかね、ここで、あちら、近畿、ここへ手紙がまいっております。佐多先生宛に。
それこそ、八十になられるそうですけれども、とても八十とは思えないみずみずしいというか、若々しい文面で合楽に初めてお参りして、始めて教会長である私に会った時の感想を、又はおかげを受けた事を書いておられます。
親先生とお目にかかった。それはたった一分間だった。そのたった一分間だったけれども、一分間の間に頂いたその事で自分の一生が変わってしまう程しのおかげを頂いたという手紙が佐多先生宛に来ております。
一言で人が助かる。それはなる程今いうお導きをする。そして助かってゆくという私は、やはり人が助かってゆくという事ですけれども、そういう助かる事の出来れる内容というものが、結局隣の人の事が祈れるというか、隣の人が助けられるといったような、普通では隣が儲けだしたら腹が立つような、隣の蔵が建ちゃ腹が立つといったような心の状態を、私共の心の中に見極めて、そういう心を取り除いて改まって、そして隣の事を切に祈らにゃおれない。お話の一つもさしてもらわにゃおれないという、そういう信心が繰り返されてゆく所からです、神様の御信用もだんだんついてくる、お徳も受けられて一言で人が助かるといったような働きになってくるのではないでしょうか。助かるという過程もさまざまです。 私共の心の中には、そういういうならば、なら、お導きができたとかそこに、お導かれた人が助かるという程度の所が自分の内容というものを、今日私が申しましたような事ではない。隣の者が都合がよかと、こっちは不愉快で足らんというようにあるのだけれども、神様は導いて下さったり、助けて下さったりしておる。ね、
だから、そういういうならば、助けるではなくて、自分自身が助かっての助かりでなければいけん。これは自分の病気が治ったから、同じ同病相憐れむで助けるといったようなものではなくて、自分の心が助かる。
それは自分の心が隣の人の事を祈らずにはおれないという、そういう心が自分が助かっておる時なんです。
今日の、いうならば助けるという事は、非常に、もう絶対神様の御信用がついてくる。お徳が受けられるという心の状態を先ず作れというのです。隣の人の事が心から祈れるという心を先ず作れというのです。そこから導かれてくるというような、助かっていくというような助かり。そして力を受けてゆく。そして、いうならば一言で人が助かる事のでけるような徳も力も受けていきたい。
昨日ある所から電話がかかってきた。まあ、大変な問題である。だから、まあ、これを偉い人にでも頼んで解決してもらおうと思うが、といったような内容のお電話であった。私は、受話器を取らせて頂いてから聞かせて頂いたら、頂く事が、片仮名の「ネ」という字を頂いた。片仮名のネですね。どういう事だろうかと思うたら、次に一口の田と頂いた、どげんなりますか。片仮名のネという字を書いて一口と書いて田圃の田の字を書いたら福岡県の福になりぁせんですか。
福という事は、まあおかげという事だと私は思うた。だからそういう事をせんでもね、そういうふうに心配なさらんでも、神様におすがりしておかげを頂けばいいです そんなに人のようにしなくてもいいです。ね、というて申しましたんですけれどもじっとしときなさいという事は、私は片仮名のネという事は「何とかは寝て待て」という事があるでしょうが、という言葉があるでしょう。じっとしておって、私に、一口おかげの受け物を作らせ一口私がいうたら、向こうの人は「はあ、そうでした」というて福の心になるです。そこにばたばたせんですむ、おかげがあるのですよ。
これなんかも、一口で助かる事になったんです。ね、だんだんおかげを頂いて自分自身が助かる。それが、自分自身がおかげを頂いたという程度の所から、いうならば難儀な人を見て、その、私がおかげを頂いたから、私が飲んだ薬がよく効いたから、あんたもこういう薬のみなさいと同病相憐れみ的な、いうならば助けるから、ね、自分の心の中にこういう仏様というならば、鬼のような心が同居しておる、その鬼のような心に気付かせてもろうて取り除いて、そしてその仏心というか神心で隣の人の事を祈れる。
私は本当に隣の人の事が祈れる心というのは、神心だと思うですね。勿論、そこの所は厳密に自分の心というものを検討してみて、いうならば神心になる。
そこに信心修行があるのです。お道の信心はどこまでも私共の心が、十年もしたら我と我心が拝めるようになる。いうならば、生神を目指すというのである。
「此方ばかりが生神ではない皆もその通りのおかげが受けられる。生神とはここに神が生まれる事である」と仰せられてある。そこに哀れな人がある。それを助けたいという心は誰しにもあるんだけれども、ね、厳密にいうて家はもう隣と仲ようしとるという人もあるけれども、多分にいうてです、今いう諺を借りるならね、隣が蔵を建てるとこっちは腹が立つ。といったような意味においての隣です。ね、そういう心が私共から取り除かれる。そこにいうなら残るものは仏心であり、神心なんです。そういう心で人に伝えてゆく。それを私は真心だというふうに思います。
そういう信心がでけていく限り、神様の御信用はいよいよ募ってくるでしょう。そして本当な意味においての自分が助かり、本当の意味での人が助かるという働きになってくる。いうならば、一口で人が助かるというような働きも起こってくるというわけであります。私は、今日は人が助けられるという事が有り難いと心得て信心せよとおっしゃる。だから皆さん、人を助けるという事が、有り難いと先ず心得られる私にならなければならない。「人だんじゃなか、自分の事でいっぱい」というのではなくて、それを有り難いと頂かしてもらう、分からしてもらう信心を先ず身につけなければならない。そこから人が助かってゆく。
教祖金光大神御、御一人の助かりが、なら、今日の教団をなしておるように、いうならば、私、大坪総一郎の助かりが、今日の合楽の御比礼をなしておるように、先ずは本当に「私が助かる」という事の内容を改めてゆく。
いうならば、そういう心を焦点にしての改まりである。そこに自分の助かりを感じる。そこから自ずと人を助ける手がかりとか、働きとかが、生まれてくる。ね、
勿論、隣だけの事じぁありませんけれども、人の助かるという事が、いよいよ有り難いもの尊いものと分からして頂ける信心を頂きたいと思うですね。
どうぞ。